「大川伝承の会」の佐藤さんのお話から

「大川伝承の会」の佐藤さんのお話から

1月15日の閖上の記憶の丹野さんのお話会に続き、16日には、「大川伝承の会」の佐藤敏郎さんのお話を聞く会をひらきました。15日の夜、トンガの海底火山噴火による大幅な潮位変化があり、沿岸部にいらっしゃるみなさんは不安な夜を過ごされていました。16日、佐藤さんは、大川小の現場でお話をくださる予定でしたが、朝からはいれない状態にありましたが、あたかもその場にいるような動画での講演を聞かせてくださいました。

以下、参加者からの感想をまとめました。ぜひご覧ください

★大川小学校をご案内してくださる、佐藤さんの明るいお顔が印象的でした。きっと「未来を拓く」場所だからこそのお顔なのかもしれません。さまざまなご葛藤を経て、気づきを得ておられる佐藤さんは、濁流にもまれながらも、澄んだ心地へ到達するように導かれているように思え、それは、亡くなった子どもさんたちの思いを深い哀しみの中で本当に大切になさっているからかもしれない、と感じました。防災は恐怖から希望へと至るためのもの。ハッピーエンドに至るためのもの、ということばに明るい勇気をいただきました。(大澤貴代子)

 

★「事実」「考察」「学び」を旨として未来を拓こうとされているお話は心に響きました。文字や写真による【情報的事実】よりもなによりも【感性的事実】としてみずほさんがそこで事態と向き合っていたことがストレートに心に入ってきました。

みずほさんの視線での校庭の指揮台の前からの退避行動ご案内は、お聴きしている私もみずほさんとともにそこにいるようで、我が事として伝わってきました。きっと佐藤さんが星になられたみずほさんの心と常につながっておられるからなのですね!

佐藤みずほさんの命の星の輝きを、現地で、ナマで、感じることを大切な「事実」としてしっかりと受け止めて「考察」「学び」の出発点としたい、と思った次第です。

「震災前のいま!」この秋こそはお伺いできることを祈念しています。(Kei)


★佐藤さんの熱のこもったお話しを聞いて,子どもたちがなぜ校庭にとどまっていたのか,どうして津波の犠牲になってしまったのかという謎を知りたいというお気持ちがひしひしと感じることができて,どんどん話に引き込まれていきました。また,ここへ,この山へ逃げていたら…という親としての疑問や犠牲になった理由を知りたいというお気持ちが佐藤さんの活動の原点にあると言うことを知りました。そこから,みらいを拓くという言葉で,子どもたちの命を無駄にしないという活動に至り,子どもたちの命を輝くものに代えていこうとするモチベーションになっていることがよく分かりました。我が子を愛するからこその親としての務めですね。その活動の向こうに子どもたちの命が輝き,災害に向き合う心構えや,学びに繋がっていくのですね。確たる信念で進む佐藤さんのお姿に感銘を受けました。私も,命輝く子どもたちが大川小学校で見ていた星空の撮影ができそうな気がしてきました。以前訪問したときは,なぜか分からなかったのですが,シャッターを押す手が止まってそれ以上できませんでした。次にいくときは,佐藤さんのお気持ちもしっかり受け止められたので,きっと子どもたちが見ていた星空,見たかった夜空の風景を撮影できると思います。お話しを伺って良かったです。ありがとうございました。(前川義信


★大川小学校についてのお話を伺うのは、2回目です。今回、「未来を拓く」「命を輝かせることに力を向ける」「防災はハッピーエンドのためにある」という、未来に向けての言葉が、深く心に残りました。

震災発生直後は物資の支援、その後は心の支援、そして、次に被災者でない私達は、私達の周りに・後世に大川小学校のこと、震災のことを伝えていかなくてはならないと思います。震災から10年以上経ち、私達は「伝える」ことに重点をおく時期になっていると思います。個人ではなく、星つむぎの村という団体で、佐藤先生のお話を聞いたのですから、そのお返しとして、村として、「伝える」ということを考えたらどうだろうかと考えました。

例えば、プラネタリウムの時に、「未来志向・今は震災前・学び」を意識し、震災についての冊子やプリントを作って配るとか、話をするとか、映像を作って流すとかできたらいいなと思いました。私達にできることは何かを探りたいです。(ゆかこ)

 

★昨年、伝承の会の鈴木さんのお話を伺いました。話を聞くたびに、なぜこういう結果になってしまったのか、亡くなられたお子さん達のご家族の無念を思うと言葉も出ません。佐藤さんは、以前の大川小学校はどんな学校だったか、そして「あの日」の起ったことを正確に伝えることで震災の伝承をするとともに、学校防災の意味を訴えていらっしゃいます。の「未来を拓く」のメッセージに、現実を受け止め、その先の未来を見ていこうという気持ちを感じました。佐藤さんのインタビュー記事では、大川小を、ふるさとやまちづくり、親子や家族というテーマを深められる場所にしたい、と語っておられました。私もいつか大川小に行き、その地に触れることでいろいろなことを考えたいと思います。(沼光博)

 

★佐藤さん、ありがとうございました。佐藤さんの血の通った言葉の一つ一つは、みずほさんをはじめ、74人の子どもさん達の声なのだと思いました。あの日に戻り、雪が降りそうな寒い校庭の朝礼台の前でしゃがみ、狭い道を駆け抜けたりすることで恐怖や不安が自分の中に襲ってきて、小さな子どもの心はどんなに苦しかったかと想いを馳せました。この11年間佐藤さんが子どもさん達と共に歩いてこられた長い時間を想いました。あの日を思い出すことは簡単なことではないと思います。私は、5年前みずほさんと同じ歳の次男を事故で亡くしました。あの日と向き合うことがまだきちんとできていません。佐藤さんが逃げずにあの日と向き合い、あの時の子どもたちの気持ち、伝えたい言葉に真摯に耳を傾け続けてこられた姿は私に大きな力を与えてくれました。「あの日の前があったこと」を想います。大切にしたい。私も強く想います。人として、一人の親として、生前の姿も声も言葉も、この地球上に存在していたということを忘れてほしくないお気持ちも、しんしんと伝わってきました。「未来を拓く」という意味も、子どもさんたちが教えてくれたことと併せて考えながら紐解いていきます。今度お会いした時は、みずほさんのお話、たくさん聞かせてほしいです。私もまだ、一度しか行くことが出来ていない(事故検証の際に行っただけ)事故の場所に行ってみようかと思い始めています。今までも大切にしていたつもりですが、「あの日」のことも「あの日まで」のことも、もっともっと大切に抱えていけるようになるでしょうか。私も息子と共に歩いていきたいと強く思います。お話し、忘れません。(古賀和子)

★佐藤先生のビデオ、とても臨場感がありました。災害遺構として残った大川小学校での映像を使った講演ビデオは、現在の場所・過去の子どもたちの写真を対比して、見せてもらったことで、子どもたちの様子が、思い浮かべられて、考えさせられることが多かったと思います。子どもたちの亡くなった際の状況は、ただただご冥福を祈るのみで話を聞かせてもらいました。
 ”防災のことを考えることは、恐怖が・希望になるということ。”という話のように、自分の身内に置き換えて考えて、この場所が、”未来を開く場所”となっていくことを願っています。(石川貴之)

★大川小学校には10回近く、ほとんどが、友人たちを連れて訪れています。それは、やはり実際に見て、感じて欲しいからです。地元なので、新聞やTVで大川小学校のことを目にする機会は多く自分なりに少しは分かっているような気になっています。でも、敏郎先生の生のお話は、聞くたびに胸がギュッとなって新しい気づきに繋がります。
 今回は、あの美しい壁画の中に描かれている「未来を拓く」の意味に気づくことができて、前向きになれたことが嬉しかったです。これまでは、悲しさ、悔しさ、虚しさばかりが胸に渦巻いて辛かったけれど、あの場所は「未来」へと繋がっていく所ですね。その思いを私もこれから話していきたいと思いました。(高橋博子)

 

★昨日は参加させていただきありがとうございました。

大川小学校伝承の会の語り部の佐藤さんのお話は、動画解説と組み合わせてあたかも大川小学校を訪れているかのような臨場感あふれるものでした。見学者が立ち入ることができない校舎内部を撮影された貴重な映像と震災前の大川小学校の営みの対比は、一瞬の出来事が私たちの当たり前を奪ってしまうということを直視しなくてはいけない気持ちになります。

長年の「語り」の蓄積が非被災者の私たちにより深い理解を促していると感じました。このような貴重なイベントにより多くの方が参加することを希望いたします。

貴グループの活動が多くの組合員に広がるよう事務局として今後の連携を模索していきます。(pal:H)

 

★今回はご参加させていただきありがとうございました。オンライン企画に変更になったおこぼれで参加させていただけました。

貴グループの活動を知るととも、パル未来に花基金の助成がどのように役立っているのかを知る機会とさせていただきました。

2日目の佐藤敏郎さんのお話は、非被災者が「自分ごと」として震災をとらえる難しさを、語り部として工夫を凝らした構成で、少しでも「自分ごと」としてとらえる想像の場を与えて下さいました。

また、信頼のおける先生からの指示で”裏山に逃げようとした子供を戻るように指示した”とのお話から人間の判断はあやふやで脆いもの、とっさの行動は予測不能と感じました。

佐藤さんから「誰もがパニックになっていた。考える余裕なんてない。」との実感がこもったお言葉。事前の訓練で決めておくことの大切さが、ジーンと伝わりました。

震災の風化を食い止めるのは、防災と一緒に考えることであり、伝承の3本柱「事実」・「考察」・「学び」とともにあるとおもいます。

合言葉は防災はハッピーエンド」ですね。

ありがとうございました。 (pal:Y)

 

貴重なお話しをありがとうございました。震災の時のこども達目線でのお話や、震災以前の親や教師など大人としての取り組みや心構えの足りなかった部分のお話しなど聞かせていただいてきたことに加え、普段の星つむぎの村の活動や報道されるニュースなどいろいろなことから、最近子どもを寝かしつける時に、子ども達がいなくなってしまったらどうしようと思う夜がすごく多くあります。こわくなるのは、災害や事故や病気などはいつ誰に起きてもおかしくないということを今までよりも強く受け止めつつあるのと同時に、そのための準備や今子どもに向き合うことや寄り添うことができているかという不安からくるものではないかと感じています。佐藤さんがおっしゃられていたように、恐怖を感じると考えるのを止めたくなりますが、そうではなく、希望に変えるために、「自分の子がここでこうなったら」という自分事として+自分たち事として捉えて、備えをし、こども達とも、地域の方達とも、学校とも、共に話をして行動していきたいと思います。

「ハッピーエンドのところまで考える」や「恐怖を希望に変えるために考える」というのは、繰り返し繰り返し、ことある毎にやっていきたいことですが、その一方で、一人で向き合うにはつらい、という時があるので、みんなで話が出来る場があったらいいと思います。(あゆみ)

 

★先生のお話で一番印象に残ったのは、「防災はハッピーエンドの未来まで考える。」です。今日も津波警報が出ていましたが、どれだけ自分の事として考えられる人がいたかなぁって思いました。自分もそうなんですけれども、やはりこれだけ情報をもらっていても私のところは大丈夫と思ってしまって生活しているので、「ハッピーエンドの未来までつなげて考えられる防災」というのを改めて考えなければいけないと改めて思いました。星つむぎの村の村人になってこうやっていろんな人のお話を聴けて良かったと思います。 (勅使川原)

 

★仙台市出身です。震災があった時は千葉県の小学校で、特別支援学級の教員をしておりました。大きく長い揺れを感じた時は、子ども達が下校をするために、昇降口で靴を履き替えていたのですが、片方の靴を履かせた後の揺れが大きすぎたため、もう片方の靴を履かせることができず、校庭の真ん中に向かってどのように避難しようかと戸惑ったことを思い出します。

 大川小学校は、とても素敵な小学校であったことを知りました。校舎も校舎外も工夫が見られ、みたこともないような素敵な作りの学校でした。子ども達の笑顔やこんなことやあんなことが楽しかっただろうなと、身近に想像できました。また、地域の人達と一緒に活動していたであろう田舎の良さ、温かい日常の声が聞こえてくる感じがしました。

 今日は、海底火山の噴火が原因で津波の情報がテレビから流れました。我が家の子ども達は、仙台に祖父母がいるので、「津波」を関東の子どもたちより身近に感じています。テレビを見ながら「ねえ、お母さん、今日部活に行っても大丈夫なの?部活の先生は、今日お休みって言わないの?」と不安げに私に尋ねました。私は、「行かなくてもいいよ。」という言葉と「大丈夫だよ」という言葉を胸の中で交錯させながら、「学校の先生は、正しい情報を得て守ってくれるから、安心して行きなさい。気をつけるのは、学校までの道だよ。」と言って送り出しました。今日のお話を聴きながら、今朝の我が子とのやりとりを複雑な思いで振り返っています。

仕事をするうえで、学校は安全で安心な場所である、そうあって欲しい・・と思って取り組んでいます。しかし、佐藤先生のお話の中で、「そこに子どもの影が、映像がちゃんとあっただろうか?」「そこに、自分の子どもを想定できていたか?」という問いを頂き、「見直しが必要だ」と思いました。

本日、佐藤先生のお話を伺い、考えたり感じたりした気持ちは、自分の中でどのように落ち着かせればいいのだろうと悩みました。そのような中、「未来に向かって」「その終点は未来に向けてください」という佐藤先生の言葉は、大きな救いとなりました。これから、当事者意識を持ち、自分の目標としてとらえることができると思いました。ありがとうございました。

(講演会後の意見交換で)

「悲しみはその人にとってかけがえのないものであり。悲しみと共にこの先を生きていく」当事者の想いに耳を傾け、お話を聞かせてもらう。昨日、閖上の丹野さんのお話を聞いたときは、あまりにも身近な場所であったことから、複雑な思いを持つ自分がいたことを感じました。それは、自分が地元を離れ、他県にいたことや実家とこんなにも近い場所が、甚大な被害を受けた・・しかしながら、そうではない場所もあったということ。この思いを実家の母は、「申し訳ない」という言葉で表出します。誰もがその土地を大切にし、生きてきた歴史があり、思い出がある。だからこそ感じる我が事。閖上の地を我が事として見守る人は、沢山いるだろうと思いました。複雑さは、身近さが持ち込むものだと思いました。

今日これだ!と思ったのは、「命を輝かせること」です。とても救いになりました。いつも、目の前にいる、支援学校・学級の子どもを思いながら災害に関して考えます。災害時の情報保障の中に、小さな課題と選別されて伝わってない情報があることでしょう。いろいろな立場の人の経験を知り、学ぶべきだと思いました。「命を輝かせる」の中に、障害のある子ども達がいることを知ってもらうこを大切にしようと思いました。また、災害が起こったときに、具体的に何が出来るのかという情報を伝えていくべきだと思いました。なぜならば障害を持つお子さんのお母さんたちは「子どもを連れて逃げることはない、家に残る」と言う方が多くいます。私は、みんなと一緒に逃げるよう考えを変えて欲しいと願っています。全ての人たちが当たり前に、安心で安全な対策を持っている環境出会って欲しい。

 そのためには何が必要なのか、まずは、場所の確保や物品等の備えは必要だと思いました。今日の講和を機会に改めて考えると、学校は地域の避難場所なので、避難するのは、子ども達だけではないことに気付きました。不特定多数の人が集まってくる場所です。そう思うと、困っている子ども達、高齢者、幼い子ども達を理解し、どのように接することが出来るか、日々生活の中でコミュニティを作っていくことも大切にしなければならないと思いました。

「今を輝かせる」・・それを、星つむぎの村で輝いている子どもたちから学びながら考えていきたいとおもいました。とても前向きな気持ちになりました。ありがとうございました。 (野口由紀子)

 

★「ここは未来を拓く場所なんです。」ということを伝えて頂けてすごく有難いです。佐藤先生が、そう言葉にして表現できるようになるまでにどれだけの苦しみがあったのかと思うと、それは想像を絶します。でも、それを乗り越えて僕らに伝えてくれた言葉なので、やっぱり我々は未来を拓くために全力を尽くさなければならないと思います。

裁判も、責任者を探すことが目的ではなく、どうして50分間とどまったのか、他に選択肢はなかったのかを明らかにすることこそを遺族のみなさんは望んでいるのでしょう。

きっと、あの日も、現場でいろいろな力が働いていたのだろうと思います。

僕も小学校現場にいたからよくわかります。1F(福島第一原発)が爆発した後、集団下校の時に(甲府は1Fから280㎞しか離れていません)、僕は子どもたちに傘をさすように指示をしようと主張したのだけれど、「そんなことは国は言ってない。」といって反対した先生がいました。

科学的に判断すること、安全を第一に考えて行動を選ぶということ、ふだんから心がけていかなくてはならないことだろうと思いながら、お聞きしました。(跡部浩一)

 

★丹野さんのお話の中で「悲しみでつながる御縁」という表現がありましたが、少し腑に落ちないところがありました。「悲しみ」という一見するとネガティブなもので繋がる御縁って、果たして良いものなのかどうか。どう受け止めればよいのか、もやもやしたところがありました。その後の佐藤さんのお話では、「防災はハッピーエンドだ」という表現がありました。これもすぐには理解できないものでしたが、少し丹野さんのおっしゃる「ご縁」の意味が分かったような気がしました。過去は過去で変えようがない。辛い悲しみとして過去がある。それをどう考えて、その先のハッピーエンドに繋げていくのかが大切なのだと理解しました。地震や津波といった災害による悲しみが御縁で、今のこの場があると思うと、それをどうしていくかってことを考えるのはすごく大事なことだと思います。当事者意識を持つことも大事だと思っています。例えば会社でも毎年防災訓練があって、そのマニュアルも作りますが、結局会社の人の事しか考えていないマニュアルになっています。実際には社外からのお客さんが来ていることもあるでしょう。その人たちはどうしたらいいのか、ということを全く想定していないのです。例えば災害時の学校には、生徒だけではなく地域の人も避難してくることがあるでしょう。そういうリアリティーのある具体的な想定をして準備するのが本当の準備だと思います。悲しみでつながるご縁を大切にして、それをハッピーエンドにできるように自分の出来ることを探していきたいと思います。(吉田立)

 

大川小の話は初めて聴きました。あんなに山が近くてそんなに険しくもないのに、なぜみんな行かなかったのか、全く逆の津波が来る方向に行ってしまったというのが、よくわからなかったのですが、先生の説明でかなりわかりました。想定外の時はみんなパニックになってしまって正常な判断が出来ないんですね。三鷹の小学校でも避難訓練をしています。伝承館は、50~100年先のことを考えて、「未来を拓く」ためにも事実関係や、裁判の方向をきちっと残しておくことが大事ではないかと思います。(岡崎)

★大川小の様子は、橋が流されて自衛隊が作った仮の橋を渡っていた頃から何度も見に行き、いつも子ども達の無念さに心がつぶれる思いでした。教室は外から見える状態で、渡り廊下の鉄筋がねじれて倒れ、献花台がだんだんと立派になって子ども達の名前が刻まれた大きな石碑が置かれていた時もありました。私が知っている大川小は発災の後の残された悲しみの場所だったのです。

 佐藤先生は、子ども達がどのように生き生きと過ごした校舎なのかを保護者の温かい視点から教えてくださいました。円形を区切ったモダンなデザインの校舎で、絨毯が敷かれたホールではお嬢さんが図書委員長として発表したこと、体育館までの空中渡り廊下はガラス張りで楽しそうに子ども達が行き来したこと、芝生があってお花が咲く素敵な中庭があったこと。学校が子ども達にとって楽しい場所で、地域の人達に見守られ、幸せがいっぱいあったのだとわかりました。

 佐藤先生も仰っていますが、なぜ子供たちの命が奪われることになってしまったのかを解明する必要があります。川反対の小学校は、たまたま手前の小さな川で津波が止まり、学校は無事でした。山向こうの小学校は避難訓練の通り山の上に登ったので、校舎が壊滅する大きな津波が来ましたが全員助かりました。それでも山の上の神社は狭く、1,2年生とお年寄りだけ社に入り、3年生以上は外で雪の降る中、先生と手をつなぎ校歌を歌って朝まで頑張ったという、つらい体験をしています。

 大川小はどうだったのでしょう?避難訓練を行っていたのでしょうか?避難先は橋のたもとの三角地帯という低い場所で、安全を確保して考えたとは言えません。発災時校長が不在で、指揮系統が曖昧でした。子どもの受け渡しを優先させたのか、校庭から動きませんでした。サイレンが鳴り、保護者が避難を呼びかけ、松原まで津波が来たと広報車が知らせるなど、危険を感じていれば非難するチャンスはあったのに直前まで動かなかったのは、ここには来ないだろうという甘い考えが見え隠れしました。

 「失われた命を大事にし、これからの命を守る」ために、教職を辞されて全国に啓もう活動を行っていく決心をされた佐藤先生に、ただただ頭が下がります。学校や教員は子ども達の命を守るところです。各地で大きな災害が起きている今、各学校のみならず、市町村や県単位で避難準備について真剣に考え直して欲しい。そして、私達も自分の大事な家族が災害に巻き込まれるかもしれないことを想定して、どうするかを話し合っておく大切さを感じました。

 「大川小はみんなの意識を変えて未来を切り拓くところ」重くて力強くて大切なものがこの言葉には含まれています。佐藤先生、心に届くお話をありがとうございました。(田中真理)