「閖上の記憶」の丹野さんのお話から

「閖上の記憶」の丹野さんのお話から

星つむぎの村は、その前身グループである「星の語り部」のころから2011年以降、毎年複数回にわたって、「星空を届け隊」として東北を訪問してきました。プラネタリウムや観望会を行うと同時に、震災体験のお話を聞かせていただく機会も毎回とっていました。2017年に、「閖上の記憶」を見学で訪問した際、語り部をされていた丹野さんが、「あの日は悔しいぐらい星空がきれいだった」とおっしゃり、私たちがプラネタリウムをやっていることを伝えると、「あの日の星空が見たい」とはっきりおっしゃいました。それから、閖上の記憶とのおつきあいがはじまりました。

2020年も21年も、7mドームをもっての訪問の計画をたてていましたが、感染状況を鑑みでかけることができず、オンラインイベントにきりかわりました。今回、22年1月15日に、あらためて、丹野さんのお話を聞く時間、一緒に工作をする時間をもちました。

以下、参加者の感想をまとめました。これを読んでくださった方々が、防災・減災について考えたり、想いをはせたり、それぞれの今を感じるきっかけになったり・・すれば幸いです。

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★丹野さんのひとりのお母さんひとりの主婦としての思いが心にしみました。地震の直後、水道やガスが止まった中で「卒業式という記念日の夕食を、どうしたら作れるだろうか」と息子さんを思って心をめぐらす思いが、あまりに人間的で、後で感じられたであろう哀しみの深さが心に突き刺さりました。また、「名前は親がわが子に贈った最初のプレゼント」ということばも心に残ります。みんなあたたかな名前をもったひとりひとり大切にされるべき「人」なのだな・・・と。日航機事故でお子さんを亡くされた美谷島さんとのご交流も、深い修羅を越えた方々の中で通じる思いの中のきめ細やかな情感を思います。等身大の思いを分かち合っていただけたことに感謝いたします。 (大澤貴代子)

 

★丹野さんが落ち着いて丁寧に3月11日の状況をお話ししてくださる言葉が、胸に迫ってきました。14人の子ども達を忘れないで欲しいという強いお気持ちが、私の心を打ちます。私達が、丹野さん達と交流を持つこと、それは忘れないということです。そしてそれは、丹野さん達のエネルギーや希望につながっていくと思います。感想にもありましたが、悲しみを乗り越えるのではなくて、共存していく、ともに歩いていく、併走していく。本当にそうだなと思いました。(ゆかこ)


★丹野さんの子どもたちを思う深い愛情と行動力に敬意を表します。犠牲になった子どもたちを忘れないでほしいという強いお気持ちを感じ,子を持つ親として共感できるものがありました。慰霊碑を立てたり,伝承の会を立ち上げたり等々の活動をする中で,同じ思いを持つ人々との交流も,丹野さんの人柄と行動力が,周囲の人々に着実に伝わっていることの証です。皆さんと一緒につながり,子どもたちを思い未来に向かってともに歩いて行きたいと強く思いました。これからも体に気をつけて,末永く活動してまいりましょう。お話しを聞かせていただきありがとうございます。またお目にかかりましょう。(
前川義信)

★丹野さんのお話は、丹野さんの想いと共に「もっともっと生きたかった14人の子どもたち」の命が私達に懸命に語りかけてくれているように感じられました。14個のチューリップの写真、驚きと共に胸がいっぱいになりました。丹野さんが献花台をつくられたとき、公太さんたちはどんなに喜んだだろうかと想像しました。防災の意味・日常とは・命のバトンを次に繋げていくこと、多くのことを考えさせられました。3m下に埋もれてしまった街の日常も景色も忘れずに次の世代にも伝えていきたいと思います。「閖上の記憶」に伺い、公太さんをはじめ、14人の子どもさんたちの残してくれたものをゆっくり見ながら、一人一人のお話を沢山聞かせてもらいたいです。私は、最近、あの日の息子を思い出して、ゆっくり泣いてます。あの日を思い出すことは辛くて苦しいことだけど逃げてはいけないと教わった気がします。まだまだですが、すこしづつ、ゆっくり。「あの日」を忘れないことは、「あの日まで」も大切にできることなのですよね。またぜひお話を聞かせてくださいね。ありがとうございました。  (古賀和子)

 

★昨年初めて丹野さんのお話を聞いてから一年が経ちました。あの日の経験をひとつひとつ丁寧に伝えてくださる丹野さんの語りに、14人の子供たちのことを忘れないで欲しい、自分と同じように悲しい思いをする人を減らしたい、という想いが伝わってきます。丹野さんの「あの時、こうしていたら」を時々思い返しながら、災害に対する心構えが自分自身も変わってきていると感じます。講演会以外でも丹野さんのインタビューや紹介記事に触れることがあります。息子さんを思う気持ちは11年経っても変わらず、悲しみは癒えることはありませんが、それを受け入れて「これから」の活動をしている丹野さんに心を動かされます。私自身も星つむぎの村の一員として、丹野さんと寄り添う時間をこれからも作っていけたらと思います。(沼 光博)

 

★昨年に引き続き、講演会を聞くのも2回目になります。 前回にくらべ、亡くなった子どもたちの事、前より想像できる感じがしました。昨年に送ったものと同じステラボードが部屋の中に飾ってあり、何気なく電灯をともし、この地域のことを思い出していたかもしれません。東北地方で、地震があったときに、閖上の丹野さんは、大丈夫だろうか?と私も感じるし、村なのかでも話題に上がるように、知り合いになった人の話になったからなのだと思います。

 たくさんの、災害の情報は多々ありますが、残念ながら報道が少なくなるともに記憶から遠のいてしまうことも事実です。被害にあった方へのいい言葉はなかなかみつかりませんが、公太君のこと、閖上中の14人のこと、知り合い目線で感じていられるようになると良いと感じています。 ”復興支援”という関係ではないつながりということでしょうか。  (石川貴之)

 

★1歳の子どもと聴かせて頂きました。
私は仙台市内で中学校の教員をしています。今の中学3年生に当時の話を避難訓練の時にします。クラスの生徒は当時幼稚園児でした。幼稚園の記憶で鮮明に覚えているものは少ないと思います。しかし、生徒は口を揃えて「覚えている」と言います。小さかったけれども鮮明に覚えているんです。亘理に住んでいる子は当時、避難場所とされていた小学校の校庭などに逃げて、お母さんに手をぎゅっと握られていたそうです。その手の感触をいつまでも忘れられないと言います。やはりそういった話を聞くと、今私達が出来る事は何なのかということを常に考えながら避難訓練をしています。
 クラスの生徒は震度1でも2でも机の下に隠れます。身を守るスピードは校内で1番早いぐらい。自分の身を守ることを徹底してくれているかなと思っています。
 今日は貴重な話をありがとうございました。(鈴木あゆみ)

 

★震災当時、大阪にいたので、本当に全く被害が無く揺れもあまりなかったので、どう向き合っていけばいいのか、全く被害が無いのに変に復興というと逆に傷つけてしまうこともあるし、星つむぎの村でも支援しているのにどう参加すればいいのか悩んでいました。今回ZOOMでお話を聴くという機会があったので、勇気をもって参加しました。

 今日思ったのが、とても想像できないくらい本当にすごいことがあって、つらい想いをされたのに伝えて頂けるっていう有難さと、「悲しみ」は乗り越えたり克服するものではなくて、ともに生きていく、共存する、一緒に並走していくというものなんだと、実感を持ってわかったことです。

すごく参加して良かったなって思っています。

今度は是非現地に行って、たぶん自信を持って、変に偽善者と思わないで、寄り添えるんじゃないかなと今回参加して思いました。ありがとうございました。 (清水)

★丹野さんのお話を聴くのは2回目です。1回目は胸が詰まってしまい、今日は少し冷静に聴かせて頂きました。10年経とうと、おつらいと思います。校舎の中から机を引っ張り出して献花台を作った、丹野さんの頑張りを一番に聴かせて頂きました。10月には、リアルにお会いしたいと思っています。(勅使川原)

 

★仙台市太白区に実家があります。閖上の朝市には、小さい時からよく行っていました。震災後、実家に帰った時に、生活圏内であり思い出がある荒浜、6郷7郷・・車から見える景色は知らない景色になっており、「あったものが無い」という、とらえ難い感覚を持ったことを思い出しました。今、千葉で教員をしていますが、もし宮城県で採用されていたら、閖上・荒浜・名取と、自宅の近隣で教員をしていただろうと思うことがあり、わが身に重ねて震災を思います。震災直後、小さな我が子を抱えて仙台に行くことができませんでした。星つむぎの村人となり、星で閖上の地と繋がることができました。今後も、星を介してご縁を頂けたらありがたいと思っています。ありがとうございました。(野口由紀子)

 

★今まで何度か丹野さんのお話を拝聴しておりましたが、今回が一番、閖上の皆さんの状況が絵に描いたように伝わってまいりました。これは、丹野さんの「伝えたい」というお気持ちが強く、常に相手の立場になられてお話の仕方を工夫されていらっしゃるからだと思いました。

私は「東北の沿岸の地域」はどこも大津波を経験されて、津波が来ればすぐに逃げようという「てんでんこ」が心に刻まれているとひとくくりに考えていました。閖上で人災が起きた背景は、今までに大きな水害が無く、お年寄りが「ここは大丈夫。」と言い切るような土地だったことを知りました。「津波は数十cmぐらいで、自分達の地域ではないどこかに来るもの」と考えられたから、津波の心配は誰もせずに、夕飯の事を考えていらしたことが、今回初めてストンと腑に落ちたのです。

丹野さんはたまたま公民館の庭にいらして、突然の「津波だ!」の声で階段を駆け上り間一髪で助かったのだと。だから、何も持たず、何にも家から持ち出すことが出来なかったのだとわかりました。津波は海底にたまっていたタールを巻き上げて真っ黒い塊として押し寄せ、足元まで迫った恐怖。

お嬢さんも駆け上がった中にいらした。息子さんはそんなに離れていない所にいたのに、わずかな距離の差で助からなかった。。。それで、もしかしたら息子さんを助けることが出来たんではないかという悔いが、丹野さんを突き動かし、息子さんがいらした証を私達に伝えていくことを決意されたのだと感じました。 石碑に亡くなられた中学生の名前を刻むことに関してそれぞれの保護者で考え方が違い、全員の承諾が得られなかったのを、今回初めて明かしてくださり、様々な壁にぶつかりながら、現在に至っているのだと、丹野さんの御苦労を垣間見た思いでした。

 丹野さんの「自分事として考え、同じ悲しみを繰り返さないで」というメッセージを受けて、私も自分が住む土地の水害が起きた時に自分の家がどうなるのか、冷静に考えることにしました。家の傍に1級河川が流れており、大雨で堤防が決壊するとハザードマップから3~5m浸水することがわかっています。栃木県で河川の決壊によって家屋が流された事例を参考にすると、川のようになる大水が流れてくるとしたら、木造住宅の我が家は土台を残して流されるかもしれないと想像できます。大事なものをどうするか、どこへ避難するのか、平常時の今考えておく必要があります。丹野さんが誠意を尽くして自然の驚異を教えてくださったからこそ、自分事として身の安全を考えることが出来ました。心から感謝します。さらに、私も見聞きしてきた災害の恐ろしさと尊い命の犠牲の悲しみを、これからも自分の周りの人に伝えていきます。 (田中真理)